井田ゆき子(20回生)
〝着物はボロでも心は錦〟

そんな男や女に出会う喜び

 

 山岡鉄舟―-。その名は聞いたことはあるが、どんな人物なのか、本書を手に取るまでよく知らなかったが、「着物はボロでも心は錦」の典型のような人柄だという。加えて、剣を持てば、叶うものとてない剣術の達人だ。森さんの新シリーズ『千葉道場の鬼鉄』は、25歳の山岡鉄舟(鉄太郎)を主人公に、尊王攘夷の風が吹き荒れる江戸を舞台に、幕末から明治への激動の時代を人々はどのように生きたのかを考えさせてくれる物語である。ぜひ一読を勧めたい。

 

6話からなる物語は、鉄太郎が幕府講武所の剣術世話役を務めて4年目の万延元年(1860)33日の桜田門外の変から始まる。語り手は、小石川茗荷谷、時雨橋たもとにある煮売屋『あじさい亭』の娘、13歳のお菜である。あじさい亭は亭主、手作りの総菜を売る小体な店だが、店の奥には総菜をつまみに酒を飲ませてくれる入れ込みがある。客の大半は職人や人足といった下層の庶民で、旨くて安いと評判で、酒豪の鉄太郎も常連のひとりだ。彼に誘われるようにして尊王攘夷派の壮士や浪人らも姿を見せ、さまざまな事件や騒動が巻き起こる。

 

桜田門襲撃事件の下手人のひとりが、あじさい亭に逃げ込んで起きる騒動を描いた第1話。剣と学問を教える清河塾を創設した清河八郎に絡む事件を描いた第2話。手塚治虫の先祖に当たる蘭方医の手塚良庵が登場する第3話。ネズミ捕りの達人居眠り猫のエピソードに剣の奥義をなぞらえた第4話はとりわけ面白い。各話それぞれ史実に基づく事件を軸に、テンポよく物語は進み、読者を飽きさせない。登場人物ひとりひとりをこまやかに描きだす森さんの筆も滑らかで、ページをめくる手がまどろっこしくなる。

 

そして、忘れてならないのが鉄太郎の妻お英(おふさ)である。山岡家はれっきとした幕臣だが、畳は8畳の居間に3枚あるのみ。畳も家財道具もすべて質屋に入れ、壁も天井も板はすべてはがして薪にしてしまったというあばら家だ。お英は身ごもった赤子を、栄養不足で乳が出ないために失った。質入れしてたった1枚しかない着物を洗うと乾くまで腰巻一つでいるほかなく、客があったときは濡れた着物をまとうしかない暮らしぶり。そんな窮乏にあってさえ、兄に離縁を勧められても首を縦に振らないお英とは……? 貞女の鑑と片づけてはしまえない、芯の強さとたおやかさを秘めたお英の人物造形が魅力的で、今後のシリーズ展開に期待がふくらむ。

 

今や現代社会ではなかなか出会えなくなってしまった、寡黙で不器用だがいざとなれば己を捨てても義と愛を貫く男と女―-。しかも、それが架空の人物ではなく、実在の人々だ。そんな人間と出会えるのが、本書を読む喜びといえるだろう。

二見時代小説文庫/700

 時雨橋さじさい亭