木津 則子(14回生)

 それは高校1年生の春、入学して間もなくのことだった。クラスの人の顔と名前もはっきり一致しない頃、数学の授業の時間に数人の生徒が指名され、前に出て黒板に数式と解答を書くように言われた。運悪く私の名前も呼ばれてしまい、前に出ることになったが私は数学が大の苦手だった。さっぱり答えが浮かばず、黒板の右端の前で何も書けずに立ち尽くしていた。私の他に指名された34人の生徒は、すでに解答を書いて席に戻っている。頭が真っ白になりながら、半泣きで立ち往生している私の背中に、何かがコツント当たった。

 見ると、ノートの切れ端のような紙で折られた飛行機だった。広げてみると、数式と解答が書いてある。誰かが、答えを教えてくれたのだった。幸い先生は、生徒の席の間を見回っていて、私の事は目に入っていないようだった。私は、紙飛行機に書かれていた内容を必死に黒板に丸写しして、そそくさと自分の席に戻った。とにかく、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

 

 当時は、一人で立ち往生した恥ずかしさと劣等感が先に立ち、誰が紙飛行機を飛ばしてくれたのかを考える余裕がなかったが、時が経つにつれて、私を救ってくれたのは誰だったのだろうと思うようになった。七重浜から函館の高校に進学したばかりの私は、都会の人はなんてハイカラなことをしてくれるのだろうかと、感動と感激の気持ちでいっぱいだった。

 

 さっと答えを書いてくれたことからして、きっと頭の良い生徒だろう。そして、紙飛行機という手段を使ったことで、女子ではなく男子ではないかと推測した。

 一番成績の良かったWくんか。しかしWくんの席は、出席番号順に座っていた当時の教室の一番後ろだったので、黒板の前まで飛ばすのは容易ではないだろう。次に、紙飛行機が飛んできたのは私の斜め左側なので、方向的にTくんではないか、と考えた。しかし、卒業して何十年も経った平成9年ごろの同期会でTくんに話したところ、「自分ではない」と言う。

 それならばもうこの人しかいない、と思う人がいた。席の位置、頭の良さ、機転、正義感など、いくつかの条件から、Kくんで間違いないと考えた。きっとそうだと思いながらも本人に言うことができず、初めてその話をしたのは、平成24年の同期の東北旅行会の時だった。実はKくん本人は、「覚えがない」と言ったのだが、周囲の元クラスメートたちが、Kくんならそういうことをするだろう、そうだ、絶対にKくんだ!と口々に言い、私の恩人はKくんということになった。

 

 今思えば、先生はもしかすると、私が誰かの助けを借りたことを知っているのではないか。黒板を前に一人長時間半泣きで立っていた私を、叱ったらよいのか席に戻したらよいのかと、対応に困っていたのかもしれない。今ならば、そういう大人の気持もよく理解できる。

 

あの紙飛行機の御かげもあって、苦手な数学で赤点も取らず無事に卒業することができ、皆と一緒に第14回卒業生になれた。あの当時は、恥ずかしいばかりで何もできなかったが、紙飛行機を飛ばしてくれた人は勿論のこと、私の様子を見てもはやし立てたりしなかったクラスメートたち、気付いていたかもしれないのに咎めなかった先生にも、とても感謝している。

何十年経った今でも鮮やかに心に残る、「紙飛行機の思い出」である。